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 1860年代初め、多くの若者たちが芸術を志し、夢と希望を胸に故郷を離れてパリをめざした。モネは北西部の港町ルーアーヴルを、バジールは南部の古都モンペリエをあとにする。
セザンヌは同級生のゾラを追うように南フランスのエクサン・プロヴァンスを出て、都会の喧噪のなかへ身を置くようになる。

 

数年前、西インド諸島のセント・トーマス島からはピサロが到着していた。彼らを待っていたのは、パリ近郊出身のシスレー、パリジャンのドガおよびルノワールだった。
 

 こうしてグレールの画塾、そしてアカデミー・スイスにおいて、彼らは運命的に出会った。野心を抱いた若者たちが、すぐに意気投合したとしても不思議ではない。
 

 画塾での型通りの教育は、決して満足のいくものではなかった。彼らにとって、ほんとうの勉強の場となったのは、ルーヴル美術館だった。マネがドガの才能に驚愕したのも、ファンタン‥ラトゥールを通しモリゾ姉妹と出会ったのも、ルーヴル美術館における模写の制作中のことである。

 

 それと並行して、彼らを導いたのは、自然観察による戸外制作だった。自然の光の輝き、きらめき、鮮やかさ、瞬間のうつろいは、ルーヴルの師が教えてくれない新しい世界を示唆してくれた。
 

モネ、ルノワール、シスレー、バジールはコロー、ドービニー、ミレー、ディアズ・ド・ラ・ペーニヤ、ブーダン、ヨンキントの例に倣い、バルビゾンやノルマンデイ、パリ近郊のセーヌ川流域で、空や雲、海や草花、風や光を追い求めた。
 しかし、伝統を離れ新しい表現を求めた彼らにとって、サロンでの評価は、期待以下のものでしかなかった。

 

 そうしたなか1869年には、マネを中心に、決して屈することのない画家たちが夕暮れになるといつしか、バティニョール通りのカフエ・ゲルボワ(下の写真)に集まるようになっていた。
ピサロ39歳、マネ37歳、ドガ35歳、セザンヌとシスレー30歳、モネ29歳、ルノワールとバジール28歳。パリで出会って以来、ともに制作することを通じ、挫折と希望を分かち合ってきた彼らの友情は、いっそう厚い信頼感で結ばれ、その夢はさらに大きなものとなっていた。

 

 まもなくパリは、普仏戦争とパリーコミューンの内乱に見舞われる。しかし、彼らの芸術的理想がこれによってくじけることはなかった。平穏を取り戻したパリで、その力はやがて自主運営の展覧会という具体的な形となって結集されていく。

​印象派の画家たちが毎日のように集まって議論した

「カフェ・ゲルボワ」

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