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​ルノワール

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Pierre-Auguste Renoir

私の名はピエール・オーギュスト・ルノワール。

第一回印象派展には私も発起人の一人として名を連ねている。そうしたことから私も印象派の一人と思われているようだが、正確に言えばそんな時代もあったという事で、生涯を通して印象派画家であったわけではない。

モネやシスレー、ピサロなどは正真正銘の印象派画家だが彼らの目指すものと私が目指したものは違うのだ。

モネとは親しい友人で屋外で一緒にカンヴァスを並べ制作をしたこともあり、シスレーやバジールとも絵画談議に花を咲かせたものだった。ただ、私の作品の多くは人物を主題にしていることから「印象主義的」な要素はあまりないのだ。

 

一方で屋外での風景描写にはモネやシスレーの影響を受けていることも事実だ。

 

「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」や「舟遊びの昼食」、「ブランコ」などは光と影に注意を払った。そんなところが印象派画家と言われる所以かもしれない。

​​

このページでは私の印象派的作品に関する時代の変遷を見てみよう。

時代とともに大きな変化があった。その顕著なところがモンマルトル界隈だ。あそこはパリの街並みが望める小高い丘なのだがダンスホールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」以外はほとんど畑ばかりで何もないところだった。今のモンマルトルからは全く想像もできない風景だ。

 

一方、「舟遊びの昼食」を描いたセーヌ川のリゾート地、シャトゥーのレストラン・フルネーズは今も変わらずにある。当時は裕福な若者たちが集まるおしゃれな場所だったが今でも当時のワクワクする晴れやかな気分を感じてもらえるかもしれない。時代を超えて共感してもらえたらうれしいね。

チョットお願いがあるのだが。

​もしよかったら、私の作品を買ってもらえないだろうか。

​とにかく観てください。

​1841~1919

​『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』

​1876年 油彩 カンヴァス 131x175cm パリ オルセー美術館

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上の作品は1876年に私が描いたものだ。『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』

​「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」とはモンマルトルの丘の上にあったダンスホールの名前で当時の若者の社交場として大変な賑わった場所だ。

店の名前のムーランとは風車のことでギャレットとは小麦粉を焼いて作る料理のことでクレープのようなもの、ガレットとも言われている。

この作品から、当時の若者の流行の一端がうかがえるんじゃないかな。

手前にいる男女の一団は私のの友人たちだ。

当時のモンマルトルには今日のような賑わいはなく、このダンスホールの周囲は畑ばかりの農地であった。

​下の作品はゴッホが描いた当時の「モンマルトル」だ。畑ばかりで何もないことが分かるだろう。

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下の3枚の写真を見てもらいたい。

​私が『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を描いた時から60年の歳月がたっているが、その賑わいのほどが分かるでしょう。

​もちろんこの時には私は天国にいたがね。

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下の画像は現在の「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

​あれから150年。

​いやー、実におしゃれでかっこいいと思いませんか。

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​『舟遊びの昼食』

1880年 油彩 カンヴァス 130x175.6cm
ワシントン フィリップス・コレクション
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セーヌ川沿いのリゾート地、シャドウ一にあるレストラン・フルネーズでの集いを描いた。。左手前で犬をあやしているのが、後に私の妻となるアリーヌ・シャリゴ。右手前かんかん帽の男は、友人の画家でコレクターでもあったギュスターヴ・カイユボット。シルクハット、山高帽、縁無し帽など、男性の帽子に目を向けるだけでも、いかにさまざまな社会階層の人々が集まっているかがよくわかると思う。また、ひとりひとりが肖像画のような克明さで描いたので当時のパリの風俗が分かってもらえると思う。テーブルの上で光を浴びたグラスやボトルの描写にも注目してもらいたい。
 

​現在のレストラン フルネーズ
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